4月12日、13日と飯田市に行ってきました。
『柳田国男全集』に載せるべき草稿、手稿、メモ類がまだまだ残っているということがわかったからです。
また、飯田の安藤家(柳田の義父直平の生家)宛の書簡、葉書で、結婚式披露宴の招待状があるとのことで、年譜事項の調査でもありました。
日もよく、前日までの雨模様の空がうそのように晴れ上がり、飯田の一本桜も一斉に開花した日でした。
筑摩の新旧の担当編集者の二人と、高速バスにゆられること四時間。
二年前の常民大学以来の飯田でしたが、いつも夏か秋の飯田、伊那谷しか来たことがなく、桜咲く飯田の町は初めてでした。
夜は、常民大学の高橋寛治さん(高野山大学客員教授)と、学芸員の桜井弘人さんが時間をつくってくれて、故後藤総一郎先生の馴染みのお店で五人で楽しい時間を過ごしました。
思わぬ出会いもあって盛り上がりました。
次の日、桜井さんが用意してくださった柳田資料に目を通し、こちらでも落としていたもの、新資料など、全集収録を検討しなければならないものをチェックし、後日、写真に焼いて送ってもらうことになりました。
そのリストは、いずれ公開いたしますが、話題としてひとつ。
「なぜ、柳田はヤナギダではなくヤナギタとこだわったか」のヒントがありました。
私は、柳田国男研究会も、『定本柳田国男集』も昔から、「ヤナギダ」できてしまったので、今さら「ヤナギタ」と言い直せずにきてしまいました。
時折、講演などが終わってから、「ヤナギタと言うべきではないか」とご意見をもらうのですが、そのままでした。
柳田家のルーツは、栃木県であるし、宇都宮周辺の柳田地名も「やなぎだ」(濁らないのは関西)なので、単に柳田の濁点ぎらいからと思っていたからです。
岩淵悦太郎の思い出話にも、「イワフチくん」と呼ばれたとありますし・・・
しかし、今回の資料の中で、柳田が、「ヤナギタ」にこだわる理由が見えてきました。
濁点がきらいだったというようなことだけではないようなのです。
まだ、私の直観でもう少し調べてから私の考えを発表しようと思っています。
そのためには、もう一度、ゆっくり飯田に行かなくてはならないのですが、折しも、高橋さんが別れ際に、秋に「常民大学合同研究会」(なんと第27回目)を飯田で引き受けることにしたと言うのです。
10月13、14日になりそうです。
そのころまでには、私の考えをまとめてこの場で発表したいと思います。
ご期待?ください。