柳田国男に学ぶ②を見た方から、柳田が見た風景や三陸海岸の地名が出ているのは、『雪国の春』以外にありますかというのと、船の話がおもしろいので、もっと知りたいという質問?要望?がありました。
前者については、その方には、『豆の葉と太陽』を読んでみてくださいと答えました。
この本、柳田の本を五冊あげてみてくださいと言われた時に必ず入れる読みやすい本です。
ということで、後者の話をもう少し、柳田の文章を紹介して、実現への可能性を追究してみたいと思います。
『島の人生』に収められた「水上大学のことなど」という短い文です。
この初出は、昭和二十四年二月の復刊『近畿民俗』第一号で、冒頭に「昭和二十三年十二月十九日」と日付が入っている珍しい書き出しのものです。
昭和の初期から自分のもとに集まってきて、民俗学確立のために尽力してきた気心のしれた同士たちに、本音を語ったものと考えてよいエッセイです。
書き出しは、
「瑞西(スイス)の寂しい朝夕を送って居た頃、私が頻りに夢を描いて居たのは、海を学問の舞台にして見たいといふことであつた。あれから二十八年、世相は逆ばかり連続するけれども、今でも未だ私は其実現を断念しては居らず、又丸つきり空な夢だとも感じては居ない。
少なくともこの話を聴いた人は皆快くほほえみうなづき、さういふ事が出来る世の中が来たら、さぞ好からうと言はぬ者は無かつた。
ただ片腕を貸さうとまで、誰も言つてくれなかつただけが欠点であるが、さういふ欠点ならば、私たちの計画には常に附纏つて居る。
今さら歎くまでも無いことである。」
註:「瑞西の寂しい朝夕を送つて居た頃」とは、国際連盟の委任統治委員として、スイスのジュネーブに滞在していた時のこと。
つまり、前回の内田魯庵の手紙を書いたころから暖めていた、船上大学のプランが、ジュネーブの寂しさのなかでどんどん膨らんできたと述懐しているわけです。
日本から遠く離れているからの「寂しさ」だけでなく、英語、仏語が公用語のように幅をきかせつつある時代への異和感、ヨーロッパのフォークロアや人文地理学などの学問や文芸からの隔絶感がその「寂しさ」の要因であることは、すでに論じられているところです。
(「寂しさ」をまぎらわすためか、謎のフランス人女性とのことは、小説ネタになりそうですが・・・)
しかし、この時、船を自由に使って、学問の舞台にしてみたいと考えていたことは、あまり触れられてはいません。
このあと、具体的に、大阪商船の紅丸規模の船がよいと述べ
「私はもと船長を一生の志望にして居たことも有る男なのである。
どうかしてこの位の船を一艘、純学問の為に動かすことの出来るやうな、時代にして見たいといふのが第一歩だつたとも言はれる。
さうして日本は海から近よつて行かなければならぬ仕事が際限も無く多く、又もつとも手が着いて居ない国なのである。
一番その必要を痛感して居る民俗学が発起者となつて、地学・社会学・生物学その他、少しでも関心のありさうな諸科の人をさそひ合せ、ぐるぐる航海してあるく研究所をこしらへたら、どんなに楽しいであらうと、思つたのが言はば病みつきであつた。」
註:柳田が船長になりたいと思ったのは、明治二十九年の学生時代の相次いだ両親の死をきっかけとしている。
しかし、それは一時の感傷ではなく、一生心の奥底にためていた夢でもあったと考えると、柳田には失礼だが、身近な存在となるし楽しい。
「柳田国男と坂本龍馬」という取り合わせは、私のなかでは、小説ネタを超えた研究テーマでもあるのです。
このあと、柳田は、「学問を公衆の財産にすること」を呼びかけ、具体的に船の上、あるいは内でやることを提案します。
それは、研究者の側からは、調査の他に講演会や談話会。船内では、絵画展や写真展などの展示会などを提案します。
そして、この夢が実現しなかった現実について次のように述べます。
「自分がはつきりと認めなければならぬ現実は、第一には似合はしい船が無く、人心の和熟が無い。
つまらぬ仕事に使ふ金はあつても、又一部には熱情があつても、この二つを繋ぎ合せようとする機縁が無い。
それほどにも世の中は荒びて居るのである。
大きな美しい夢ばかりを食物にして、私などの一生は過ぎ去つてしまつたが、斯うした空しいものは、後から来る人に踏ませたくはない。」
ということで、このプランは、大正期からずっと考えていたもので、この文章にもあるように、七十歳を超えた柳田の叶えられなかった「夢」であったことがわかります。
この「水上大学」あるいは「学術探険船」のアイデアをもとに、復興「船上“夢”大学」のプランをつくったらどうでしょう。
船には、学者だけでなく、芸術・スポーツ・芸能・職人・・・ありとあらゆるジャンルの人に乗ってもらって各港ごとにイベントを開きます。
船を訪れた 被災地の小・中・高校生たちは、自分の好きな分野の所に行って交流を図ります。
「受動」から「能動」的なかたちにもなるのは魅力です。
今は、「人心の和熟」もあり、「金と熱情を繋ぐ機縁」もある時でしょう、そう思いたいものです。
ピンチをチャンスに。
月並みな言葉ですけど、今こそ必要な言葉です。
微力ですが、実現に向けて訴え続けていこうと思います。
『豆の葉と太陽』(『柳田国男全集』第12巻)
「水上大学のことなど」(『柳田国男全集』第19巻 286ページ)