柳田は、関東大震災の報を、ジュネーブからの帰国途中のロンドンで聞きました。
その時のエピソードのなかから、ひとつ紹介します。
「南島研究の現状」 大正十四年九月五日 啓明会琉球後援会講演の冒頭
「大地震の当時は私はロンドンに居た。殆ど有り得べからざる母国大厄難の報に接して、動顛しない者は一人も無いといふ有様であつた。
丸二年前のたしか今日では無かつたかと思ふ。
丁抹(デンマーク)に開かれた万国議員会議に列席した数名の代議士が、林大使の宅に集まつて悲しみと憂ひの会話を交へて居る中に、或一人の年長議員は、最も沈痛なる口調を持ってこ斯ういふことを謂つた。
是は全く神の罰だ。あんまり近頃の人間が軽佻浮薄に流されて居たからだと謂つた。
私は之を聴いて、斯ういふ大きな愁傷の中ではあつたが、尚強硬なる抗議を提出せざるを得なかつたのである。
本所深川あたりの狭苦しい町裏に住んで、被服廠に遁げ込んで一命を助からうとした者の大部分は、寧ろ平生から放縦な生活を為し得なかつた人々では無いか、彼等が他の碌でも無い市民に代わつて、この残酷なる制裁を受けなければならぬ理由はどこに在るかと詰問した。
此君のしたやうな断定は、勿論一種の激語、もしくは愚痴とも名くべきものであつて、まじめに其論理の正しいか伊那かを討究するにも足らぬのは明かだが、往々にして此方法を以て何等かの教訓とあきらめを罹災民に与へようとするのが、ごく古代からの東洋風である為か、帰朝して後に人から聞いて見ると、東京に於てもより多くの尊敬を受けて居る老人たちの中に、やはり熱烈に右の天譴説を唱へた人があつたさうである。
誠に苦々しいことだと思ふ。」
(『青年と学問』昭和三年刊、『柳田国男全集』第四巻所収、P78)
今回の「大災厄」に関しても、「天罰」発言をした人がいましたが、柳田の時と違ってさらに「苦々しい」のは、公的な場での発言であったことです。
これに対して、きちんと批判した人は、私の知る限り、新聞の投稿と、ジャーナリスト佐野眞一ぐらいなものです。
『ちくま』五月号と、『g2』七号の佐野眞一さんの文章 お読みください。
佐野眞一さんは、柳田が嫌いかもしれませんが、今回の発言、「最も柳田的」と私は思います。