遠野において開かれた「国際フォーラム 21世紀における柳田国男」の報告です。
8月23日2時、当初の予定の140人を超え、追加で椅子を出すほどになり熱気と期待の「フォーラム」が始まりました。
アメリカ・カナダからの研究者のみなさんも前日には遠野入りして、歓迎の宴も済ませていましたので、和気あいあいの雰囲気です。
オータバシ女史は、サンフランシスコ空港で、飛行機トラブルのため一日出発が延び、40時間をかけての大旅行となりましたが、元気な様子で皆ほっとしました。
遠野文化研究センターの赤坂憲雄所長から、本フォーラムの意味と、柳田国男の新たな読み方を期待するという挨拶のあと、「はじめに」の提言がありました。
柳田がどのように読まれてきたのかを、定本刊行後から時代ごとの特徴をあげて話されましたが、吉本隆明の共同幻想論を読み、70年代に柳田に入り込んだ世代の話は、まさに私そのものと聞いていました。
そして、今、2010年代のグローバル化のなか、柳田国男とどのように向き合ったらよいのか見失っている時代といいます。
確かに、3.11のあと、柳田をつかってさまざまな指摘がされてはいますが、肝心の「魂のゆくえ」についてはいまだ不明のままです。
赤坂さんは、最後に「生臭い批判から切り離して可能性を」と述べ、大いに議論をしましょうと呼びかけられました。
駆け付けた本田遠野市長から、歓迎の挨拶を受け、いよいよ開始です。
「セッションⅠ グローバルな視点から見た柳田国男」
モースさん(ここで何回も紹介していますが、私が初めてモースさんに会ったのは40年近く前の寺小屋外語教室の柳田講座でした)からは、アメリカの日本研究の現状と、柳田の年譜を使って六期の区分を示され、結論としては、柳田の熱意をどう取り入れ、日本の民俗学者が国際的な民俗学研究に積極的に参加することなどの提案がありました。
シュネルさんからは、飛騨や東北の祭りや「マタギ」のフィールドワークを通して掴んだ日本の文化を世界的な視点での分析がなされました。
「山神」の研究や「マタギ」への愛着が、言葉ひとつひとつからにじみでてきて、会場からも感嘆の溜息がもれていました。
福田アジオさんからは、ご自分の名前が「アジア」を表すエスペラント語であることを導入にして、エスペランチスト柳田国男の紹介があり、それに比して民俗学の非国際性が論じられました。
「後狩詞記」が民俗学の方法となったのに対して、「遠野物語」が祭り上げられ忘れられていったことが、限界を生んだという指摘は、逆に「遠野物語」からの可能性を示唆していて興味深かったです。
とくに民俗学者の言葉として・・・
24日
「セッションⅡ いま「遠野物語」とは何か」
ヘンリーさんからは、「いま」という設問を受けて、「遠野物語」の変遷と、具体的に「12」話の「乙爺」の話を取り上げて柳田の文体の凄さの提起をうけました。
「桃太郎の誕生」を中心とした桃太郎研究者としての視点からの流れるような話にうっとりするほどでした。
アラスカ大学の学生に「遠野物語」を読んでもらうと、「不思議だ」という感想の次に「懐かしい」という言葉がでるという話に、驚きの声が上がりました。
このあと、「懐かしい」という感情をどう理解すればよいのかという意見が交換されました。
三浦佑之さんは、伝説・昔話・歌物語の定義を踏まえて、言わばごった煮の「遠野物語」の魅力を「混沌とした表現」として提起されました。
「10」「11」話を時系列の表にして、話の構造と読者の想像力について話されたのが印象的でした。
「セッションⅢ 可能性としての文化的伝統」いよいよ私たちの出番です。
オータバシさんからは、「写実主義文学として読む「遠野物語」」と題して、具体的に「22」話と「97」話のどの文章にリアリティーがあり、その文語体の文章が、現代的であったり時代を超越したりしているとの指摘を受けました。
ロビンズさんは、井上ひさしの「新釈 遠野物語」を英訳(この秋、出版されます。アマゾンを通して購入できます)した経験から、「遠野物語の表と裏ー柳田国男と井上ひさし」の発表をされました。
じつに丹念に井上ひさしの人生や、インタビュー、作品を読みこなしていて、私たち以上に井上の理解者でありました。
そして、最後が私です。
「柳田学の未来」や、「柳田が未来についてどんな希望をもっていたのか」ということを話し合いたいというセッションの意図から、「敗戦後」にやりたいと明言した三つの仕事が、どんな結末を辿ったのかを示し、「3.11以後」のこれからを考えたいと提案しました。
オータバシさんやロビンスさんの話と重なるように話すのが難しかったのですが、「課題」は見えてきたと自分なりには評価しています。
時間が限られていたので、読み上げたい資料を事前に用意しました。
ここに掲載しますので、話の流れをご想像ください。21世紀における柳田国男・小田資料
話のなかで紹介した柳田の「思い言葉」という概念と主張について、質問が多かったようです。
「思い言葉」をキーワードにして書いた「柳田国男とコミュニケーション能力」も参考にしてください。(「福崎町文化」26号をクリック)
「柳田全集」32巻に何か所が出ていますので、これも合わせて読んでください。
それにしても楽しい五日間でした。
同じセッションのクリスやメレックと親しくなれただけでなく、(メレックとは五年ほど前、日本にいるときからのお付き合いで全面教育学研究会の庄司和晃先生のご自宅にも案内しました)スコット・シュネル、テ゚ヴィット・ヘンリーとも親しくさせてもらいました。
スコットからは江馬修のおもしろい話をたくさん聞きました。
帰ってから「江馬修」で検索してみるとスコットの名前も出てきて、日本人顔負けの研究をしていることがわかります。
江馬三枝子との関係からも、今後、柳田年譜にかかわる情報をいただきたいと約束しました。
デヴィットからは、アラスカのおもしろい話をたくさん聞きましたが、何よりも奥さんが日本人で、ルーツが隠岐島と聞きびっくり。
神主であったとの話から、私が持参した柳田年譜資料と照らし合わせて、昭和八年に柳田と会った神主さんが奥さんのおじいさんかひいおじいさんの可能性があることを伝えました。
喜んでもらって何よりでした。
メレックが河童淵に行きたいと言ったので(なぜ行きたいと思ったのかは別の機会に)、前日の夜、第二代目かっぱおじさんの運万さんに連絡し、河童淵にいてもらったことや、お別れパーティーでの楽しい会話、被災地陸前高田を見ての皆さんの感想など、まだまだ語りたいことはたくさんあるのですが、今回はここまでとします。