柴田厳氏 成城学園初等学校の教員、校長として柳田の側にあってアドバイスし続けた柴田勝氏のご長男。
昨年の夏(2010年7月22日)、東中野のご自宅を、全面教育学研究会・世相史研究会の友人の尾崎光弘と訪れ、思い出話をお聞きしました。
柴田勝については、『炭焼日記』のなかにも、多くの場面で登場し、柳田が敬愛する現場教員の代表格でもあります。
とくに、柳田が疎開児童向けに書いた、いくつかの読み物に対して、「難しい」とか「この書き方ならば小学五年生にぴったり」とか適切なアドバイスをして、柳田からも絶大な信頼を得ていたことは周知のことです。
今回、厳氏にお願いしたのは、柴田勝が、柳田の子供向け読み物に対して、推敲し、清書している裏付け資料などが現存しているかどうかということと、柳田晩年の毎週日曜日の散歩に付き合っていた勝と、その側で話を聞いていた厳氏からの印象をお聞きすることが目的でした。
お話をお聞きし、一番最初にびっくりしたことは、柴田勝は、秋田県出身で、秋田の県教育委員会に在籍して成城学園に出向していたということでした。
ですから、玉川学園に別れる騒動ときも、渦中の人とならずに成城に残ることができたということ
でした。昭和24年に小学校の校長になり、その時に籍が成城学園に移ったようです。
何度か秋田に戻ってこいとの話があったのですが、断り続け、退職後も、八十歳すぎるまで現場に立ち、武蔵野東小学校で教員生活の最後を迎えたとのことで、根っからの教員人生を全うされました。
その支えに、柳田との出会いがあったのでしょう。
柳田の『炭焼日記』にも出てくる、戦時中の学園ごとの疎開先が秋田であったことの理由がわかりました。
「柳田国男と秋田」の関係では、今まで、菅江真澄を大きな軸として語られてきましたが、富木友治、瀬川清子、柴田勝という人の繋がりで論じられる可能性がでてきたわけです。
柳田晩年の昭和32年から亡くなる一年前の36年まで、毎週と言ってよいくらい日曜日の散歩に出かけてきて、柴田家に立ち寄ったとのことで、厳さんは、柳田と父親の勝さんの会話を興味深く聞いて過ごしたとのことでした。
とくに、柳田の蔵書成城大図書館に寄託し、柳田文庫となった経緯、東北の伝承文化の分析への期待など、柳田が晩年「これから学問を構築していかなければ」と焦りにも似た気持ちを感じたようで、興味深くお聞きしました。
そのほか、沢柳政太郎との関係や、厳さんから見た柳田の印象と民俗学研究所と成城学園の教員たちの関係などたくさんのお話をお聞きしました。
いずれ、柳田社会科や柳田国語科についてまとめる際に、詳述したいと思っています。
なお、今回大きなヒントをいただいた「柳田国男と秋田」に関する情報、とくに、柳田の秋田行きについての年譜的な情報をお寄せください。お待ちしております。
現在、把握できている「柳田の秋田行き」は、以下の旅ですが、不明の点が多いです。
1.明治40年6月 講演旅行 秋田 小林旅館から大滝温泉
2.明治42年8月 遠野からの帰りに 横手から五色温泉
3.大正4年6月 喜善に、秋田から陸中を歩きたいと葉書に書いた旅
4.大正9年9月 秋田図書館に終日引きこもる
5.大正15年7月 遠野の帰り 大館
6.昭和2年5月 秋田考古会春季総会に飛び入り参加
7.昭和3年9月 菅江真澄百年祭
8.昭和12年 娘と能田多代子同行
9.昭和16年5月 東北民謡試聴団
10.昭和18年5月 妻孝同伴 新潟 山形 から角館 富木友治宅