小田の輪の和

小田の輪ブログ

シリーズⅡ/「柳田国男」に学ぶ②柳田の夢を「復興」プランに

「東北地方・太平洋沖大地震大津波」によって、柳田が、「豆手帖から」の旅(大正9年)で見た風景や人々の生活は、破壊されてしまいました。

柳田が生きていたら、何と言っただろうかと思わざるを得ません。

そのことへの論究は、別の機会に回すこととして、柳田の「夢」で叶わなかったことで、「復興」プランとして実現できたらと私が考えたことを発表したいと思います。

大正9年8月21日に、「豆手帖から」の旅の途中の釜石で、柳田は友人の内田魯庵に次のような手紙を書いています。

旅で不在中に自宅に来た魯庵からの手紙が、家族の手によって釜石の旅館に届けられ、その返事ということになります。

前半は、7月にバセドー氏病で夭折した魯庵の娘百合子への供養と魯庵への慰みの言葉が綴られていますが、その後半の部分です。

「松島以北には松島を脚下にもよせつけさる好風景いくらでも有之候

中にも忘るる能ハざるは

陸前唐桑浜の岬角

〃 大船渡湾の丸森茶屋

〃 気仙世田米おのた駅

〃 桃生郡十五浜の海岸

〃 牡鹿郡女川湾及万石浦

などに候

小生ハ今ニ僅かの寄附を募り一艘の発動機船ニ水上移動学校を作り自身其校長となり先生を臨時講師に嘱託し往復は汽車自動車にて御迎送を致し朝凪夕凪の時間のミの御講演を乞ふことニし度など考へ居り其様なことも起こり得べき世中なれは努力御加餐今一層凡人に代り御思索被下るやう願上候」

柳田は、松島や天の橋立の「景勝地」はあまり好まなかったのですが、ここに、松島以北の「好風景」として五つのポイントが書かれています。

どこも、「景勝」よりも、人々の生活が溶け込んでいる「風景」であったのでしょう。

今回の大津波は、それらを破壊し尽くしたわけです。

このことについては、冒頭述べたように別に回すこととして、末尾の三行です。

柳田は、大学時代の両親の死から、それまでの「立身出世」の夢を棄て、「船長」となることを真剣に考えたと自ら語っています。

その後も、挫折する度に、船に乗って世界を回ることを考えたり、外交官になりたいと思ったりします。

この時期も、貴族院書記官長辞任といった「挫折」(貴族院議長徳川家達とそれにとりいる勢力の暗躍に負けたという意味で)のあとでもあり、ましてや、傷心の魯庵の慰みでもあるので、「寄付を集めて船上学校をつくり、自分は校長になって魯庵らを講師として招きたい」という考えは、その時の思いつきのようにうつるかもしれません。

ところが、違うのです。

柳田は、このプランを真面目に考えていました。

大正15年の10月に東京高等師範学校地理学会で「島の話」を講演しますが、ここで、「学術探険船」の計画は、四、五年前 ーつまり、魯庵への手紙を書いたころーから考えていたと次のように言います。

「四五年以前から、何とかして大阪朝日新聞社の如き名あり力ある新聞に実行させて見たいと思つて居たのは、学術探険船の計画であつた。

最初は手近から面白く始める考で、暮春海上の最も静かなる頃に、先づ九州西北隅の諸島、壱岐と対馬から五島の島々、及び東西松浦郡の諸島にかけて、処々の小さな湾に船を繋ぎ、一方には講話や展覧会などで多少の知識を島の人にもたらし、他の一方では自由に上陸して調査と採集と考察とをする。

単に地理の学者のみならず、能ふべくんば歴史の人社会学の人、博物などの若い専門家までも、少しづつ代りがわりに働いて貰へば、その代りには便宜を供して、島の旅行に於て最も不自由な、渡海と宿泊とを

容易にするといふ企てであつたのである。」

つまり、魯庵の手紙に書いたことは、単なるロマンでも慰みでもなく、真剣に考え、「寄附」も朝日新聞社を相手に考えていたことがわかります。

さて、この柳田の「夢」をヒントに、東北「復興」への足がかりとなるプランがつくれないでしょうか。

船の名前は、「ドリーム・ボート」でも「船上“夢”大学」でもいいと思います。。

海は、「大災厄」を運んでくるだけでなく、「未来」と「希望」も運んでくると・・・

軌道にのっていけば、平田オリザの提唱する「東北自由大学」ともつながるはずです。

問題は、柳田の時のように資金=寄附でしょう。

私はこのプランをどこに、どのようにもっていけばよいのか分かりませんが・・・

結構いいアイデアだと思うのですが・・・

「お盆までに仮設住宅」を作る努力はしてもらいたいですが、

お盆の祭りにその「ドリーム・ボート」でくり出すこと、海上の花火大会をすること(日本中の花火職人さんを被災地沿岸に集めて)、

海にミロク舟を流すこと・・・など

今から準備すれば確実にできる「大事なこと」だと思うのですが。

「豆手帖から」   『雪国の春』(『柳田国男全集』第3巻 P677)

「内田魯庵宛て書簡」  (『定本 柳田国男集』別巻第四 P682)

「島の話」     『青年と学問』(『柳田国男全集』第4巻 P61)

※「豆手帖から」と有名な「清光館哀史」と今回の大震災との関連を述べるには、わたしには、まだまだ時間が必要です。