小田の輪の和

小田の輪ブログ

「謹賀新年は無意味だから言わないけど、やっぱり新年はめでたい」という柳田国男の新年への「一言」から。

2025年の幕が開きました。

今年は、柳田国男生誕150年の区切りの年です。

150年という数字、なかなか味のある数字です。

もし、柳田が生きていたら今の時代を見て何と思うだろうと想像

できるギリギリの年だとおもいます。

そういう意味でこの一年大切に過ごしていきたいものです。

昭和28年の1月1日付け『朝日新聞』の「一言」欄に、柳田国男の「新しい光」が載りました。紹介します。

「謹賀新年は無意味だから言わぬことにして居るが、それでも正月には必ず自然の希望が起こる。殊に昨年は諸君のいわゆる末世現象がもう行詰まり、是よりは悪くはなるまいという状態にほぼ到達した。そうして一方にはだれに頼まずとも、大きくなって行くものの頭が芽を出して来た。たとえば、「公明選挙というのは何ですか」と子供がきく。いかなる教師でも親でも、それに答えぬわけには行くまい。それが又今行われている社会科の教育なのである。

 そういう少年少女が成長して、是からは毎年約三十人に一人ずつ、新しい選挙人になる。一方には又大よそ同じ数だけ、「世の中はそういうものなのだよ」、「しかたが無いのだよ」、と言って居た旧選挙人が死ぬだろう。ばか者に金を使わせる以外に、何の能も無かった地方の顔役どもも、中風か何かになってぼつぼつとなくなって行くだろう。それを考えただけでも気分が清々する。

 人のいうことをよく聴いて判断し、「あなたのいうことはわかりません」「わかるようにもう一度話して下さい」と、言えるようになるのが、我々の新しい国語教育だそうだ。受売政談の役に立てなくなる日が、もう村の口まで来ているのだから、やっぱり

新年はめでたい。」(『柳田國男全集』第32巻)

「良き選挙民を育てる」ことを目指した柳田社会科と国語科の広がりを期待した発言なのかもしてれませんが、死んでの世代交代に「清々する」としたのにはもっと深い絶望もあったのでしょう。

しかし、いつまでたっても、旧態依然のこの国に柳田の言葉が届くことはあるのでしょうか。

考えさせられます。

そこで、「生誕150年記念」のシンポジウムのお知らせを次回アップいたします。