菊栄館を見つけた次の日の朝(2010.8.6)、高橋治さんと私は、米村さんに見送られ、興奮の菊池市をあとにしました。
椎葉に行く前に、もう一カ所まわってみようと阿蘇に向かったのです。
阿蘇神社では、宮司さんや禰宜さんがいらっしゃらなかったので、お話をお聞きすることはできなかったのですが、
多分、ここが柳田が泊まった蘇門館の跡ではないかという門柱を見つけることができました。
これは、高橋さんの執念です。私はあきらめていたのですが・・・
そして、もうひとつ、戸下温泉の場所を見つけるため、高橋さんの運転で車を走らせました。
暑い一日でしたが、阿蘇の山々は、絶景でした。
そして、地図には、戸下という地名はあるのですが、集落をなかなか探すことができず、同じ場所、同じ橋を何回も通過しあきらめかけました。
しかし、前日の菊栄館のこともあり、ここまで来たら何としても、場所だけでも確認しようと、地元の方にたずね、
戸下温泉は、下の川にダムが作られることになった時に、旅館が二軒が、上に移転し、他の旅館はもうないということがわかりました。
最後に聞いた植木の手入れをしていたおじさんが、「その坂を下りていってみな。」と言ってくれたので、車をおいて
高橋さんと下りていきました。
すると、どうでしょう。目の前に、立派な滝が流れおち、見事な渓谷が広がっていたのです。
それも、観光スポットではなく、地元の知っている
人のみを受け入れているような静かな場所です。
柳田は、この景色を見ながら、花袋に
「黒川はアソ谷より白川は南郷谷より
此宿のわきに来ておち合い大小あまたの
瀑布の音高くして且さびしく候
戸下温泉 柳田生」
と葉書を書いたのです。
時は、明治四十一年六月三日のことでした。
この写真の緑よりもずっと明るい新緑の渓谷だったのでしょう。
百年前と変わらない風景が目の前にある
ここを訪れた昨年の夏にも こんなことを思って感動したのですが、
東北の大震災、大津波のあとの今、
思い出すとさらに違う場所の胸が苦しくなります。
私のこのホームページを見ているアメリカのロナルド・モースさんから、夕べ、メールをいただきました。
現在の日本の状況を伝えるなかに、「柳田」の視点を入れたいと思う私の試みを読みとっていただいたようで恐縮しました。
モースさん、英文のコメント、お待ちしています。ぜひ・・・
続けて「椎葉」の報告をしたいところですが、それは、別の機会に回して、次回は、インタビューの報告をしたいと思います。
柳田国男の指導を受け、南島研究一筋、その継承と発展に力を注がれている酒井卯作先生にお話を伺いましたので、
そのエッセンスを載せるつもりです。
ご期待ください。